スコープ3算定を超え、脱炭素が事業価値になる世界へ
科学に基づく目標設定イニシアチブ(SBTi: Science Based Targets initiative)は、企業向けネットゼロ基準のV2.0(バージョン2.0)を2026年6月11日に発表した。
SBTiは2015年の発足以来、世界中の企業にとって、信頼性の高い気候目標を設定するための基準として活用されてきた。現在、世界では10,000社以上、日本では2,500社近くがSBTiによる認定を受けている。今回の改定は、2021年に発表された企業ネットゼロ基準から5年ぶりの大幅な見直しである。
今回の改定は、基準を緩めるものではない。産業革命前からの世界平均気温の上昇を1.5℃以内に抑えるという「野心(ambition)」と、そのために科学的に必要な対策は維持している。そのうえで、従来の基準で企業が実務上つまずきやすかった点に、具体的な改善が加えられた。
筆者の受け止めは、SBTiが「脱炭素に真面目に取り組む企業が市場で評価される仕組み」をつくろうとしている、というものだ。国際政治が不安定さを増すなかでも、脱炭素が事業として成り立ち、投資が報われる経済圏をつくることは、エネルギーや生産・生活プロセスの移行を進める重要な土台となる。
本稿では、表1に示す5つの論点に沿って、SBTi 企業ネットゼロ基準V2.0の主な変更点を整理する1。最後に、今後のスケジュールと追加資料についても確認する。
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本稿は現時点で入手可能な情報に基づく解説であり、今後のSBTiによる追加説明や運用、解釈により内容が変わる可能性がある。実務上の判断にあたっては、必ずSBTiの公式文書を確認いただきたい。 |
表1 従来の課題とSBTi企業ネットゼロ基準V2.0の主な対応

1) スコープ3:算定中心から、低炭素・ネットゼロ整合調達の評価へ
従来のスコープ3目標は、主に総量目標と、サプライヤーや顧客による1.5℃整合目標の設定比率という2種類で構成されていた。中心となるのは総量目標だったが、総量を下げるには、サプライヤーの削減努力を反映できる一次データの活用が重要になる。しかし、サプライヤーは入れ替わる。基準年と現在の双方について同じ粒度・同じ方法で一次データをそろえることは、実務上きわめて難しかった。
今回の改定では、総量目標に加えて、低炭素製品やネットゼロ整合製品の調達比率で目標を設定する選択肢が加わった2。鉄鋼については、手法・指標・経路(MMPs: Methods, Metrics and Pathways)の案3において、低炭素鉄やネットゼロ整合鉄の定義、調達比率の考え方が示されている(図1参照)。案では、まず現実的に調達しやすい低炭素鉄を広げ、その後、ネットゼロ整合鉄の比率を段階的に高めていく設計となっている。
図1 低炭素鉄とネットゼロ整合鉄の定義と目標比率

この仕組みは、多額の脱炭素投資が必要となる素材産業にとって重要である。これまでは、低炭素・脱炭素生産プロセスに移行したくても、需要が見えなければ投資判断が難しかった。新基準のもとで購入企業が低炭素製品・ネットゼロ整合製品の調達を目標にできれば、「脱炭素投資をした製品が売れる」状況をつくりやすくなる。
マスバランスの扱いも重要な論点である。これまでのSBTi基準では、スコープ3におけるマスバランスの活用は不可とされてきた。今回の企業ネットゼロ基準V2.0では、物量ベースのマスバランスであれば活用可能とされている4。背後の考え方として、今回の基準ではスコープを問わずトレーサビリティについて「実践ヒエラルキー」の考え方が導入された(図2)。実際の排出源により近い、狭い範囲でのトレーサビリティを優先することが望ましいが、それが難しい場合には、活動プールレベルやセクターレベルでの取り組みも、目標更新時の「実践(implementation)」として評価される。マスバランスは、一定の活動プールを定義し、その範囲内で物理量に基づく属性配分を行う仕組みとして、ヒエラルキー上は活動プールレベルの実践に位置付けられる。なお、活動プールについては合理的な限りにおいて最も小さい範囲とすることとの記載がある。
図2 実践ヒエラルキーの考え方

これまでのSBTi基準のもとでは、脱炭素化に役立つ取り組みであっても、インベントリに直接反映できないものは評価の置き場がなかった。新たな枠組みでは、インベントリに反映できなくとも、トレーサビリティがあるものは実践として評価される。また、将来の脱炭素化に必要な投資など、トレーサビリティを伴わない支援行動(enabling actions)も、実践とは別枠で評価対象となる。
2) スコープ1:大規模投資を前提にした資産脱炭素化計画(ADP)を新設
従来の目標設定では、総量削減手法を中心に、直線的に排出量を下げていく考え方が使われることが多かった。しかし、大規模な設備投資を必要とするセクターでは、5年程度の短い期間で投資判断から稼働開始まで完了させることは現実的ではない。低炭素製品・ネットゼロ整合製品への需要が見え始めたとしても、設備の転換には時間がかかる。
そこで新たに導入されたのが、資産脱炭素化計画(ADP: Asset Decarbonization Plan)手法である。これは、短期的に直線で削減できない場合でも、ネットゼロ達成までに許容される累積排出量、すなわちカーボンバジェットの範囲内に収まるよう資産ごとの移行計画を示す手法である。
ADPには、大きく2つのアプローチがある。ひとつは、資産ごとに設定された期限に沿って削減や操業終了を進める「マイルストーンアプローチ」である。もうひとつは、対象資産が参照すべき経路に基づいてカーボンバジェットを特定し、その範囲内に収まる移行計画を立てる「カーボンバジェットアプローチ」である(図3)。
図3 資産脱炭素化計画(ADP)手法の2つのアプローチ
図4は、発電所を保有する企業がADP手法を適用する場合の例である。発電セクターでは、先進国について、石炭火力は2030年までにCCS設置などの対策を取るか廃止すること、ガス火力は2040年までに対策を取るか廃止することがマイルストーンとして示されている5。各設備について、技術的寿命に基づく稼働終了予定年とマイルストーン年を比べ、早い方を基準に移行計画を立てる。
一方、マイルストーンが設定されていないセクターの資産や、資産ごとの技術的寿命などが不明な排出源については、そのセクター全体のカーボンバジェットのうち、基準年における該当企業の排出量シェア分が企業のカーボンバジェットとなる。企業は、そのバジェット内に収まるよう、該当資産の移行計画を構築することになる。
図4 発電所を保有する企業の資産脱炭素化計画手法適用の事例
出典:SBTi, “Methods, Metrics and Pathways (MMPs)” p.56-58を元に作成
発電以外の例として、一次製鉄や建物についてもマイルストーンが示されている。一次製鉄では、2040年までにCCS、グリーン水素還元、電炉などの低炭素化・脱炭素化プロセスへ移行することが例示されている。建物については、2030年までに対策なしの化石燃料暖房の新設を停止し、2045年までに既存設備を含めて対策を取るか廃止するというマイルストーンが示されている。
ADPの導入により、1.5℃目標に整合するカーボンバジェットを守りながら、投資サイクルや設備寿命を踏まえた現実的な脱炭素化計画を立てやすくなる。これは、大規模投資を伴う企業にとっては、有効な目標設定手法なのではないだろうか。
3) GHGプロトコル:未確定の論点は「推奨」「開示」にとどめる
GHGプロトコルは、2028年中を目途に改定が進められている。そのため、SBTiが企業ネットゼロ基準の確定版を出すにあたり、改定中の議論をどこまで先取りするのかについて不安があった。特に、スコープ2の時間単位マッチング(hourly matching)、供給可能性(deliverability)、スコープ1・3のマーケット基準などは、企業実務への影響が大きい論点である。
今回の基準では、こうした未確定の論点をただちに必須要件として導入することは避けられている。時間単位マッチングについては、カテゴリA企業に対して「マッチした量を開示」する扱いにとどめている。供給可能性についても、企業がGHGプロトコルのドラフトなどを参照しながら自ら設定する形である。インベントリはすべて物理的排出量を基本とし、スコープ2でいえばロケーション基準に相当する考え方を採る。
一方で、マーケット基準が目指している方向性がまったく取り込まれていないわけではない。スコープ3で活用が期待されるコモディティ証書については、整合目標の実践として評価されることが明確にされた。スコープ1のガス証書などについても、詳細は今後の検討とされているが、活動プール内、つまりつながっているガス管の範囲内では活用可能であることが示唆されている。
つまり、SBTiはGHGプロトコル改定について、まだ決まっていない内容を先取りして義務化することは避けている。企業にとっては現実的な設計になったといえる。
4) 5年ごとの進捗評価:達成だけでなく努力と理由を問う
従来は、「SBT設定企業」というステータスがあっても、実際に削減を進めている企業と、目標を掲げただけの企業との差が見えにくかった。多くの日本企業は、SBT目標を設定した後、社内に推進体制を整え、サプライヤーとの対話や設備投資などに取り組んでいる。そうした努力が十分に差別化されないことに、不満を感じる企業もあっただろう。
新基準では、目標設定にとどまらず、5年サイクルで進捗を評価する仕組みが導入された。評価にあたっては、単に数値目標を達成したかどうかだけではなく、企業が取り得る最大限の努力、すなわち『ベストエフォート』が重視される。企業が取り得る対策を実施したうえで、外部環境などにより達成できなかった場合には、その理由を説明することが求められる。もちろん、最低限の必須達成水準も設定される見込みである。
さらに、一企業では解決できない制度的・構造的な障壁について、SBTiとして政府と積極的に対話する方針も示された。企業ができることは企業として進める。一方で、企業努力を超える課題については、政策や制度の側でも対応していく。この切り分けが明確になった点も、今回の基準の重要な特徴である。
5) カーボンクレジット・資金拠出:オフセットではなく「追加的な貢献」を評価
SBTiを含め、GHGプロトコルをベースとする算定やプログラムでは、カーボンクレジットによる「オフセット」に厳しい姿勢が取られてきた。GHGプロトコル改定プロセスでも、プロジェクト算定と企業のインベントリ算定は混ぜるべきではないという考え方が強調されている。
一方で、カーボンクレジットや気候関連の資金拠出は、追加性や十全性が担保されるのであれば、削減・除去・適応などを進める重要な手段になり得る。SBTiも、オフセットとしてではなく、企業の排出削減とは別枠の『追加的な貢献』として、こうした取り組みを評価する方向性を示してきた。
今回の基準では、削減を進める過程で残る排出を「継続的排出量(Ongoing Emissions)」と位置づけ、その1%以上に相当するカーボンクレジットや資金拠出を行うことで、自社のスコープ1・2・3の取り組みに追加する形での認定を受けられる仕組みが示された。認定は、1%以上、10%以上、100%の3段階に分かれるが、これは必須ではなく追加的認証である。
資金拠出の対象には、検証済みの削減クレジットだけでなく、排出削減の実現前に行う緩和資金拠出、低炭素・ゼロ炭素の研究開発資金拠出、緩和を可能にする活動への資金拠出、適応とレジリエンスへの資金拠出、損失と損害、いわゆるロス&ダメージへの資金拠出が含まれる。自社の排出責任とは別に、気候変動対策全体への貢献を広く評価しようとする設計である。
ただし、2035年以降については、除去クレジットの購入、または自社での除去実施が、対象スコープの1%相当分、必須となる。そのうち10%は長期貯留型の除去である必要がある。ネットゼロ年に向けて、この比率は段階的に高まっていくことになる。これまで除去はネットゼロ年のみ必須とされてきたが、それでは技術や市場が育たないとの懸念から新たな要件が設定された。
今後のスケジュール:2027年2月から申請、2028年2月からV2.0必須
SBTi企業ネットゼロ基準V2.0は、2027年2月1日から、この基準に基づく目標申請が可能となる。2028年2月1日以降に提出する目標は、V2.0に基づく必要がある。7月初旬に行われたSBTi関係者との意見交換では、現行基準で準備を進めてきた企業に対して、現行基準での目標設定を進めてほしいとの説明もあった。移行を円滑にするためのガイダンス6も発行されている。
なお、基準本体には、スタンダードとしての構造を保つため、具体的な数値や経路は多く盛り込まれていない。低炭素鉄の定義や調達比率のような詳細は、別文書である手法・指標・経路(MMPs: Methods, Metrics and Pathways)で指定される。MMPsは現時点では案であり、2026年7月31日までコンサルテーションが実施されている。
MMPsに加えて、今後はいくつかの関連ガイダンスや制度文書も公表される予定である。企業がSBTi基準に基づく目標をどのように対外的に主張できるか、検証・評価をどのように行うか、第三者ツールや認証フレームワークをどう扱うかといった点が、今後さらに具体化されていく。
図5 SBTi企業ネットゼロ基準V2.0の追加資料公表予定
SBTi企業ネットゼロ基準V2.0の狙いは、脱炭素の取り組みを負担ではなく、事業価値として成立させることにある。算定の精緻化で立ち止まってしまっていた現状を乗り越え、低炭素製品の調達、設備投資、資金拠出、政策対話までを含め、社会全体の移行を前に進める基準へと変わろうとしている。危険な気候変動を抑制し、持続可能な社会をつくることが「もうかる」世界の実現に、企業の積極的な参加が期待される。
- SBTiからは、主要な変更点を示す文書「Main Changes Document」も発行されている。
- 調達比率だけではなく、スコープ3下流については提供製品の整合率などの目標も設定可能。
- SBTi CORPORATE NET-ZERO STANDARD VERSION 2.0: METHODS, METRICS AND PATHWAYS (MMPs) Version for public commenting (June 2026)
- カーボンバンクモデルとされるCO2排出原単位を一部の製品に寄せる方式は不可とされた。企業ネットゼロ基準V2.0文書のC27.4を参照されたい。Attribute preservation: Emissions attributes at the point of instrument generation shall be allocated in proportion to physical flows across processing stages. These attributes shall not subsequently be stacked, non-proportionally redistributed, or concentrated on a subset of products in a way that overstates the outcomes beyond what physically occurs (e.g.,“carbon bank” models). 属性の保持:証書等の手段が生成される時点における排出属性は、各加工段階における物理的なフローに比例して配分されなければならない。これらの属性は、その後、物理的に実際に生じている成果を上回るような形で、重ねて計上されたり、比例性を欠いて再配分されたり、一部の製品に集中させたりしてはならない(例:「カーボンバンク」モデル)
- 途上国については、石炭火力は2040年ガス火力は2045年を同マイルストーンとする案が示されている。
- SBTi Services, GUIDE FOR COMPANIES IN THE TRANSITION TO CORPORATE NET ZERO STANDARD VERSION 2.0 (June 2026)
<関連リンク>
ウェビナー SBTi企業ネットゼロ新基準を読み解く:改定ワーキングメンバーが解説 (2026年7月30日)




