1 はじめに
2024年5月に成立した水素社会推進法に基づき、低炭素水素等1の調達と利用促進のための法律施行規則(省令)が10月に公布された2。これは、低炭素水素等のCO2排出量の基準値を定めるとともに、サプライチェーン構築のための支援3(関連設備および、既存燃料との価格差の補填)を示したものである。しかし、この制度に定めた基準値では十分な温室効果ガス(GHG)削減が期待できないだけでなく、長期にわたって税金による多額の支援が継続される懸念がある。ここでは、その課題と改善の方向について述べる。
2 水素社会推進法の課題
2-1 CO2排出量の基準値設定に関する課題
水素は燃焼時にCO2を排出しないが、その原料と製造プロセス次第で、環境負荷もコストも大きく異なる。現在、世界で使用されている水素の99%は化石燃料を原料として製造される水素(グレー水素)4で、製造時に大量のCO2が排出されている(水素1kg製造時のCO2排出量は、天然ガスで11.4kg、石炭では25.4kg)。これに対し、水素製造時に排出されるCO2を分離回収、貯留するものはブルー水素と呼ばれ、CO2の回収率次第で環境負荷が異なる。一方、水を原料とし、再エネ電力で分解して製造するものがグリーン水素であり、製造時のCO2排出量はほぼゼロである。
また、水素のCO2排出は、製造時だけでなく化石燃料などの原料採掘工程や、輸送工程におけるエネルギー消費からも発生する。そのため、水素のCO2排出量の基準値設定には、どの工程範囲で比較するか、ということが重要である。図1は、天然ガスを原料として水素製造時の排出CO2を分離回収するブルー水素のサプライチェーンと、基準の範囲を示したものである。燃料製造工程だけの範囲がGate-to-Gate、これに上流側の原料供給と輸送を加えた範囲がWell-to-Gateであり、さらに製造後の輸送を加えて利用者に届けるまでの範囲はWell-to-Point of Delivery、利用後までのサプライチェーン全体についてはWell-to-Wheelと呼ばれている。
図1 ブルー水素製造におけるサプライチェーンの全体図
2-1-1 欧米よりも緩い基準値
このような背景のもと、水素社会推進法では支援対象となるための低炭素水素の条件(各燃料の算定範囲と炭素集約度)が示された5(表1)。この基準では、水素とアンモニアは、Well-to-Gateを範囲とし、それぞれグレー水素、グレーアンモニアの7割減の値と説明している6。また、この低炭素水素とCO2から製造される合成燃料と合成メタンについては、輸送と使用時のCO2排出を含めたサプライチェーン全体を基準の範囲としている。
一方、表2に示すように、欧州の基準は日本よりも厳しい。EUタクソノミーの基準値は日本より約1割低い程度(3.0kg-CO2eq/kg-H2)であるが、英国は3割厳しい(2.4kg-CO2eq/kg-H2)。ドイツは再エネ電力を用いたグリーン水素を基本とするため、水素のCO2排出量はほぼゼロであり、さらに産地証明を求めている。米国は日本よりも緩い基準値から税制優遇が受けられるが、CO2排出量が低いほど税制優遇金額が増える、より低い値に向かわせる制度である(最小値の0.45 kg-CO2e/kg-H2では0.6$/kg-H2であり、4.0kg-CO2e/kg-H2の0.12$/kgに対し、5倍となる)。さらに、水素を用いた合成燃料や合成メタンなどの派生燃料では、EU RED-Ⅱ(再生可能エネルギー指令)の28.2g-CO2e/MJに対し、日本の基準では合成燃料が39.9g-CO2e/MJ(1.4倍)、合成メタンは49.3g-CO2e/MJ(1.75倍)である。
表1 国が示した低炭素水素および関連燃料の炭素集約度の基準値と範囲
表2 欧米の炭素集約度の基準値と範囲
2-1-2 考慮されていない長距離輸送のCO2排出
輸入を中心とする日本の水素サプライチェーンでは、海上輸送に必要となる水素の液化や、アンモニアおよびMCHへの転換、輸送エネルギーに伴うGHG排出が上乗せされる。
すでに合成燃料や合成メタンについては、炭素集約度基準の範囲としてこの輸送と最終消費を含んだWell-to-Wheel(サプライチェーン全体)で評価することになっているが、水素でも、国際規格7(ISO/TS 19870:2023)において燃料転換や輸送を含めた範囲(Well-to-Point of Delivery)での評価が検討されている。これに対し、政府は「測定方法に関する議論が収れんしていないことから、現時点では想定しない8」とのスタンスであるが、輸入依存が高い日本の水素調達にとって、液化水素等への燃料変換と長距離の船舶輸送は避けられない。現在、欧米ではWell-to-Gateを範囲としているが、国際規格の動きに対し、その変化を先取りした対応を進めていくべきである。
2-1-3 上流工程でのメタン漏洩対策の必要性
天然ガスを原料とした場合、その採掘や輸送における漏洩ガス(温暖化係数がCO2の80倍のメタン)の影響が大きい。IEAの報告書9によると、グレー水素では上流工程からのCO2排出量が、製造も含めた排出(図1におけるWell-to-Gateの範囲)の約15%を占めるとされている。そのため、水素の製造工程で発生するCO2排出を仮に100%回収して貯留したとしても、上流工程における漏洩メタンを含む温暖化ガスの排出が残ってしまう。
図2は、経産省が示した低炭素水素および関連燃料(アンモニア、合成メタン、合成燃料)の排出基準(表1)を発熱量あたりの値に換算し、上記IEA報告書のデータ(天然ガス、グレー水素、グレーアンモニア)と比較したものである。低炭素水素としてグレー水素の炭素集約度(95g-CO2e/MJ_LHV)の7割減(28.3g-CO2e/MJ_LHV)とするには、上流工程でのGHG排出量(14.4g-CO2e/MJ_LHV)が存在するため、水素の製造工程では約83%のCO2を分離回収する必要がある。一方、低炭素アンモニア(46.8g-CO2e/MJ_LHV)はグレーアンモニア(112g-CO2e/MJ_LHV)の58%減に相当するが、そのために必要な製造工程におけるCO2排出削減量は67%となる。
このように、天然ガスを原料とする水素やアンモニアでは、製造工程から排出されるCO2の分離回収だけでなく、上流工程におけるGHG排出量削減が重要となる。特に漏洩メタンの削減は、GHG低減だけでなく、天然ガス生産量アップになるため、事業者にも対策メリットが大きい。これらを背景として、ガス田等の化石燃料採掘プロセスからのメタンリーク削減に向けた世界的な取組み10が進められている。
日本は、LNGの輸入国として上流側でのGHG排出にも責任があるとして、その削減に向けた取組みが始まっている11。このような動きを受け、日本の低炭素水素も製造工程でのCO2分離回収だけでなく、上流工程からのGHG排出削減にも関与し、より低いGHGの水素調達を目指すべきであるが、法案では上流工程からのGHG排出量の算出には2次データの使用が認められている。これでは、上流工程でのGHG排出量の現状把握が不要であるだけでなく、その削減に向けた取組みが進まないことになる。事業者が上流工程でのGHG排出に責任を持ち、その削減努力を促すためにも、2次データではなく、極力1次データを取得すべきである。
図2 低炭素水素および関連燃料の炭素集約度
2-2 支援制度に関する課題
今回の法案では、サプライチェーン構築に向けた、国内設備への支援と調達する低炭素水素等燃料に対する燃料費補助が大きな柱となっている。この燃料費補助は、天然ガス等従来の化石燃料と比較して高価となる低炭素水素等に対し、その差額を補助するもので、値差支援と呼ばれている。その概要を図3に示す。従来の燃料価格を参照価格、新たに調達する低炭素水素等の価格を基準価格とし、その差額を長期にわたって税金で補填するものである。ここではその課題について述べる。
図3 政府が示した値差支援の概要
2-2-1 調達費低減へのインセンティブが働かない
図3に示す基準価格(調達する低炭素水素等の燃料価格)には、原料価格や設備費用だけでなく、運転維持費や資金調達コスト、利益、税金までをも含めたものとなっており、事業者にとってコストダウン努力が働きにくい制度となっている。さらにその期間は、政府は投資に対する予見可能性を高めるためとして、支援開始後15年という長期に渡るものであり、その終了後も10年間の継続が計画されている。しかも、GHG排出削減に用いられるべきCO2排出に対するカーボンプライシング(炭素賦課金)の導入は2028年度からであり、それまでは財源のないままでの税支出となってしまう。
一方、同様の値差支援をすでに実施しているドイツでは、競争入札によって最も安い価格の水素を調達し、最も高い価格を提示した事業者に供給することで、その差額を最小にするメカニズムを働かせ、最小限の差額補助を実現している(図4)。日本でも、支援制度の運用にあたっては、オークション等の基準価格を下げるメカニズムを導入すべきである。また、カーボンプライシングの早期導入により、参照価格に炭素価格を含めることで値差を縮小し、国費で賄う支援額を低減すべきである。
図4 ドイツの値差支援の概要(H2Global)
2-2-2 CO2排出の固定化
値差支援に関する公募事業は今年度から開始されたが、水素サプライチェーンは2030年の完成を目標に開発が進められている一方、アンモニアについてはJERAの低炭素アンモニアの調達は2028年の見込みであり13、当面は天然ガス(70.6g-CO2e/MJ-LHV)よりもGHG排出量の多いグレーアンモニア(112g-CO2e/MJ-LHV)が対象になると予想される。
これに対し、法案では非化石証書の使用が可能とされているが14、これでは低価格のグレー水素やグレーアンモニアを低炭素にするインセンティブが働かない。本来、水素やアンモニアはCO2排出量を減らすために使われるものであるから、排出量の多いグレー水素やグレーアンモニアは調達すべきではないし、さらに非化石証書を用いて見かけ上の排出量を基準値以下にした上で値差支援を行うというのは、本末転倒である。CO2排出量が基準値を超えるような水素やアンモニアが値差支援の対象になること自体が問題であり、これらに非化石証書の使用を認めるべきではない。
また法案では、将来基準値が改正されたとしても、先に認定を受けた低炭素水素等については引き続き支援の要件に該当する、としている15。将来的には、国際的な動向も含め、現在の基準値はより厳しいものに変更される可能性が高い。その際には、すでに支援を受けている事業者も対象とするか、認定を受けた際の炭素強度を下げ、CO2排出量のさらなる削減を図るべきである。この法案のままでは、一旦認定された事業者はさらなるGHG削減の必要性がなく、当初の基準値(将来的には相対的に炭素強度が高い値)の水素等燃料が流通し続けることとなってしまう。さらに、後になればなるほど基準値が低くなるため、新しい事業者の参入を阻害し、競争原理が働かず、技術革新やイノベーションの障壁となるだけでなく、先に参入した事業者の既得権を守るだけになってしまう。そのため、基準値が変更された場合は、先に認定された事業者にもその値を適用すべきである。また支援が実施されているものでも、継続的に温室効果ガス排出量を確認し、基準値を満たさない場合は支援停止とすべきである。
3 改善への提案
このように、今回示された低炭素水素やアンモニアの基準値は欧米の基準値よりも緩い上に、日本は海外からの長距離輸送にともなう燃料変換(液化水素、アンモニア合成、MCH製造)と船舶動力に伴うGHG排出量が無視しえない。現在、これらは基準値の算出範囲に含まれていないが、輸送を含む規格がISOで検討されており、パイプライン輸送が主流の欧米に対して不利となる恐れが高い。しかも基準値の運用では、今後厳しい値が導入されたとしても、当初認定された支援先への補助が2045年まで継続される見込みだ。これでは、認定を受けた事業者にとってGHG削減へのインセンティブが働かないばかりか、より厳しい基準を満たす必要のある新規事業者への参入障壁となり、競争のない市場となってしまうことが懸念される。
一方、値差支援は調達事業者にとって手厚いものであり、入札制度がないため競争原理が働かず、差額対象とする化石燃料へのカーボンプライシングの導入が遅れている現状では、大きいままの価格差を多額の税金で長期間にわたって支援することになってしまう。このままでは、多額の公的資金が既存のビジネスモデルの延命に使われ、価格競争力のある燃料調達だけでなく、新技術によるイノベーションにつながらず、価格とCO2排出量の高い低炭素水素等燃料を使用せざるを得ない国内の製造業にとって、国際競争で不利になる恐れが大きい。
政府はエネルギー政策としてS+3E16でエネルギー安全保障を大きな目標としているが、2030年に向けた調達の大部分は輸入のブルー水素となる見込みであり、海外の化石燃料への依存が続き、エネルギー自給率向上(安全保障)に寄与しない。さらに長期的な円安傾向と併せ、海外への多額の資金流出が継続される17。
しかし、今回決まった制度をもとにしても、今後の改善は可能である。例えば、基準値を段階的に引き下げることを明確にする、対象者決定に入札制度を導入する、化石証書の使用や二次データの使用を限定的にするといった方策である。それらにより、グリーン水素の調達促進に加え、ブルー水素製造時のCCS回収率引き上げや上流工程のメタン漏洩低減など、事業者のGHG削減への努力を引き出すことが期待される。2030年に向けて大量のグリーン水素調達18を計画している欧州の動向を踏まえると、将来的な事業予見性を高めるためにも、現時点からより厳しい基準にも対応できるための備えが必要だ。
さらに、今後は海外からの調達だけでなく、エネルギー安全保障の観点からも、国内生産も立ちあげていく必要がある。現在の支援制度では、対象となる事業者の水素の供給量として年間1,000トンを条件としており、小さな規模からスタートすることが多い国内事業者に対する、大きな参入障壁となっている。この部分を見直し、国内での水素製造の立ち上げと育成にも道を拓くことは、エネルギーの安全保障だけでなく、国内や地方の雇用創出にもつながる。それを実現するための大前提が、太陽光や風力発電などによる再エネ電力の十分な確保である。
これらの追加的施策により、水素を化石燃料の隠れ蓑にせず、その調達を機に、国内のグリーン水素製造とさらなる再エネ電力拡大につながる政策に期待したい。