コロナ禍に際しての一考察

デヴィッド・スズキ ブリティッシュコロンビア大学 名誉教授 / デヴィッド・スズキ財団 共同設立者 / 自然エネルギー財団 理事

2020年5月20日

in English

 
  以前は環境保護を訴えるデモが世界中で盛んに行われていたのに、新型コロナウイルスというちっぽけなウイルスのせいで、人間の活動は停滞を余儀なくされてしまった。3月13日以降、私は妻と一番下の娘、娘の夫、3人の孫と共に、太平洋の島にある小屋で隔絶された生活を送っている。薪ストーブで小屋を暖め、井戸からきれいな水をくみ、毎日出かけては、カキや二枚貝を採り、捕獲用の仕掛けからエビを取り出し、鮭を釣り、ホウレンソウの代わりになるセイヨウイラクサを摘む。庭にはたくさんの野菜の苗が植えられ、孫と何時間も遊んだり本を読み聞かせたりする。パンデミックのさなかとは思えないぜいたくな時間の過ごし方だ。しかしこの島にいても、食料のほとんどは食料品店で購入し、高齢なので薬局で薬を買い、マリーナでボートに燃料を補給し、自動車や照明、調理器具、常時接続のインターネットを利用するために電気に頼っている。
 
 漢字の「危機」は、「危険」と「機会」を意味する2文字から成ると聞くが、今回のパンデミックは、まさにこの2つの側面を備えている。すべての活動が止まっている今こそ、私たちはこの状況が何を意味しているのかを考えなくてはならない。新型コロナウイルスは、チェルノブイリや福島の原発事故と同様に、世界がいかにグローバル化しているかを私たちに知らしめた。放射能汚染やウイルスを一つの狭い地域や一つの国の中に封じ込めることは事実上不可能だが、光の速さで情報を共有することはできるのだ。
 
 新型コロナウイルスの感染が拡大する中、カナダ政府はあらゆるレベルで情報共有と協力を図り、ウイルスが国民に与える脅威を最小限に抑えることを最優先で考え、政治的な駆け引きをしなくなったことに驚いた。遠隔地のコミュニティーで暮らす先住民族、農場で働く移民、受刑者、路上生活者、貧しい人々など、国内で最も脅威にさらされ、社会の周縁に追いやられた人々の存在も忘れてはいない。政府は数百億ドルに上る給付金を約束しているが、財政赤字を懸念したり無責任だと批判したりする者はいない。
 
 カナダでは3月に厳しいロックダウンが始まり、それ以前の出来事はまるではるか昔のことのように思える。だが過去を顧みないのは大いに危険だ。そこで2年前の2018年にさかのぼってみよう。この年の10月、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が特別報告書を発表し、2100年までに工業化以前の水準に比べて1.5度を超えて地球温暖化が進んだ場合、環境に壊滅的な影響が及ぶと結論付け、温室効果ガスの排出量を2030年までに45%削減、2050年までに正味ゼロにすることを求めた。この提言を受けて各国は具体的な削減目標を設定、カナダ連邦政府は「2050年までに温室効果ガス排出量を正味ゼロにする」との公約を発表した。しかし実のところ、これは公約でも何でもない。なぜなら現職の政治家の中で2050年まで活動を続けている者はいないし、政府が確実に目標達成に向けて動くようにする責任がないからだ。しかもカナダでは、IPCCが特別報告書を発表したすぐあとに大麻が合法化され、気候変動問題に関する議論はメディアから完全に消えてしまった。
 
 また2019年5月、国連は生物多様性の損失に関する報告書を発表し、世界で今後100万種の動植物が絶滅の危機にあると指摘した。続いてこの報告を補うかのように、過去数十年間で昆虫が激減したと科学者たちが発表した。昆虫は地球上で最も生息数が多く多様性のある重要な生物グループだ。だが国連が報告書を発表した日に、英国のハリー王子とメーガン妃の間に第一子が生まれ、大量絶滅に関する話題はニュースから消えた。
 
 さらに2019年秋、環境活動家のグレタ・トゥンベリさんに触発された大勢の人々が、若者を代表して世界各地で気候変動対策を求めるデモに参加した。カナダでの参加者数はモントリオールで50万人、トロントとバンクーバーで数十万人に上った。参加者の訴えは「科学者の言葉に耳を傾け、深刻にとらえるべきだ。さもなければ若者の未来は暗く不確実になる」という、いたってシンプルなものだった。デモを裏付けるかのように、オーストラリアでは全土で森林火災が発生した。
 
 コロナ禍が発生する以前の2019年末、市民社会は気候変動と生物種の絶滅を回避するための英雄的な行動を求めていた。2020年はアースデイ50周年にあたり、持続可能な未来に向けた抜本的なシフトが始まるはずだった。しかし史上最も暑い年になると科学者が予測する中、あらゆる活動は新型コロナウイルスによって停止を余儀なくされた。
 
 人間の活動がここまで停止したことは過去に一度もない。私たちはこの機会に、今どんな世界に生きているのか、どうやってこの世界が形作られたのか、そしてパンデミック終息後にどこへ向かうべきなのかを考えるべきだろう。カナダには化石燃料産業が放棄した油井が数万あり、温室効果ガスの一つであるメタンの排出源となっているが、政府はすでに数十億ドルを投じて、アルバータ州のオイルサンド採掘労働者を油井の閉鎖作業へと転換している。こうした取り組みは、今私たちに課せられた課題、すなわち地球環境を回復・再自然化させることに労働力を振り向けるための第一歩と言える。
 
 1930年代の世界大恐慌のさなかに結婚した私の両親は、現在のコロナ禍に似た厳しい時代を経験したことで、自分たちにとって何が一番大切なのかを学び、子供たちにこんな箴言を叩き込んだ。
 
分相応に暮らしなさい。
明日への備えを残しておきなさい。
欲を張らず分かち合いなさい。
隣人を助けなさい。いつか隣人の助けが必要になるかもしれないのだから。
よく働き、収入を得、生活に必要なものを買いなさい。ただしお金に執着してはなりません。きれいな服や新しい車や大きな家があるからといって、より優れた人間やより重要な人間になれるわけではないのだから。
 
 両親が苦労の末に体得し、生涯を通じて私を導いてくれたこの教訓は、あらゆる点で今の時代にふさわしいものと言えないだろうか。本土から遠く離れたこの島で、私は人間が築いた持続不可能なフードチェーンについて考える。例えば私が店で買う新鮮なレタスやオレンジ、お茶、コーヒーは、どれも外国で生産され、化石燃料を使って何千キロも離れた場所から運ばれてきたものだ。私たちはフードチェーンを短縮し、自給率を高めていかなければならない。だがブリティッシュコロンビア州北部では、液化天然ガス事業(段階的に廃止すべき産業の一つ)に必要な電力を供給するために巨大ダムの建設が進められている。完成すれば北部の穀倉地帯である肥沃な谷は水没してしまうことになる。
 
 魚好きの私は、日本を訪れるたびに築地市場へ足を運ぶようにしている。だが日本では海洋プラスチックや乱獲から海を守ろうという動きがあまりみられないのは驚きだ。築地を訪れる人々にしてみれば、さまざまな魚がずらりと並んでいるのを見るのは楽しいだろうが、その光景は世界中の海で大規模な漁を行う漁船団が作り出した幻想だ。希少なクロマグロの競りは今も連日行われているが、価格は上昇し、サイズも小さくなっている。クロマグロが絶滅の危機にある証拠だ。魚のいない世界など日本人には想像もつかないかもしれないが、科学者によれば、私たちはそんな世界へと向かいつつある。
 
 現代社会にエネルギーは欠かせないが、このまま化石燃料を燃やし続けたら、大気の組成が変化し、海水のpHが変わることは確実だ。すべての生命にとって進化の突破口となったのは光合成であり、バクテリアが光エネルギーを安定した分子(糖)に変えて蓄えられるようになったことによって、生命の進化が加速したばかりか、大気中の酸素濃度が著しく高まった。人間は古来より、クリーンで無尽蔵なエネルギーをもたらし、大気と海水の循環を促してくれる太陽をたたえてきた。人間に知性があるというのなら、地球環境に悪影響を及ぼす化石燃料ではなく、太陽光、風力、潮力、波力、地熱など、ほぼ無限の自然エネルギーを利用する方法を見つけられないはずがあろうか。日本では原子力エネルギーを使って湯を沸かしているが、世界有数の地震大国である日本の地下には莫大な熱湯が蓄えられている。ならばアイスランドと同じように、日本でも化石燃料や原子力エネルギーを地熱エネルギーに切り替えることができるはずだ。必要なのはやろうとする意志であり、そのための方法は知性によって見つけることができるだろう。
 
 孫のリョウが1歳半だった頃、私はよくバギーにリョウを乗せてビクトリアの海沿いの道を散歩した。散歩をしていると、ウォーキングする人、ジョギングする人、自転車に乗る人などとすれ違う。ある時、大きなフクロウが木の低い枝に止まっているのを見つけた私は、急いで近寄って写真を撮り、フクロウを指して興奮気味に「素晴らしい眺めだよ」とリョウに叫んだ。だが周りの人は誰も私が何に興奮しているのか確かめようともしない。すぐそこにいるフクロウを見たのはリョウだけだった。人はみな常に忙しく、イヤホンで音楽を聴いたり携帯電話を見たりして外の世界をシャットアウトしてしまっているのだ。
 
 今、空は青く澄み、飛行機雲もない。車やボート、人々の喧騒が消え、木々の間を吹き抜ける風の音、水鳥の声、北極の繁殖地へと向かうガンの鳴き声が聞こえる。ここが温帯雨林であることを教え、庭の植物を育み、井戸を満たす雨を私は大いに楽しんでいる。食卓に上るのは汚染の心配のないシーフードだ。料理と食事は子供にとっても大人にとっても素晴らしい儀式になった。ここでは携帯電話は使えずテレビも見られないが、インターネットのおかげで必要なコミュニケーションは取れる。私は思う。コロナ以前はなぜ仲間と楽しく過ごしたり、子供たちと遊んだり、一緒に料理や食事をしたり、自分を取り巻く世界に耳を傾けたりすることができないくらい忙しかったのだろう、と。
 
 私はまた、政府と企業にとって最優先事項になっている経済についても思いを巡らせる。このロックダウンの間、困窮した人々を支援するために急遽、莫大な金が使われたことに驚いたが、自然エネルギープロジェクトの支援、労働者の持続可能な職業への移行、傷ついた生態系の回復、植林、クリーンな自然エネルギーによる電力インフラの構築、都市での無料公共交通の提供といった事業にこれほどの金が投じられることはなかった。経済は自然が生み出したのではなく、人間が築いたものだが、今の経済システムは生態系と社会を崩壊に向かわせている。常に成長を求め、自然が損なわれることで負の外部性が生じているにもかかわらず、誰も経済活動の結果について責任を取らないからだ。だが、システムを生み出したのが人間ならば、私たちはそれを確実に変えることができる。まずは自分自身に問いかけてみることだ。
 
経済は何のためにあるのか?
限界はないのか?
どれだけあれば十分なのか?
消費主義の経済は私たちを幸せにするのか?
 
 今ある世界はどのようにして作られたのか
 
 人間は長い間、動植物を求めて絶えず移動を続ける狩猟採集民だった。他の生物、空気、水、大地、太陽などとの複雑な関係の中で生きていることを知っており、観察と経験を通じて生存に必要な知識を蓄積して、生き延びるすべを学んできた。その後、農業によって食料を手に入れることができるようになってからも、多くは地方の集落に暮らし、人間の生存と幸福が天気や気候や季節に左右されることを深く理解していた。農民は昆虫による授粉、特定の植物による窒素固定、水と日光が作物の成長に果たす役割の重要性を知っており、自然は生きるために欠かせない存在だと考えていた。
 
 ところが人口が増えるにつれて、集団を導き行動を統制するための価値観とルールを宗教が規定するようになる。一部の宗教は、人間を他の生命に優越する特別な存在とみなしさえした。「知は力なり(Scientia potestas est)」と述べ、人類の向上に資する重要な知識は厳密な科学的手法によってもたらされると考えたのはフランシス・ベーコンだ。ルネ・デカルトは「我思う、故に我あり(Cogito ergo sum)」と述べて心と体を分離し、知性を肉体の上に置いた。またアイザック・ニュートンは、宇宙とは科学を通じて理解される機械のようなものであり、各パーツにフォーカスすることで全体を説明できると考えた。こうして科学が発展し発見が続く中、18世紀後半には産業革命が起こり、「人間は他の生命に課されたような制限や制約を受けない」という考え方が強まる。私たちは望遠鏡のおかげで宇宙の果てまで観測できるようになり、顕微鏡のおかげで水滴の中に広がる生命の世界を観察できるようになり、機械のおかげで休みなく働き続け、他の生物には不可能な速さで移動できるようになった。その結果、「人間は複雑な自然の一部であり、それに依存する存在である」という環境中心の世界観は失われ、「人間が行動の中心であり、すべては人間のために存在する」という人間中心の世界観を持つようになったのである。
 
 法制度は人間中心主義を反映し、人権と財産権を規定している。私たちは他の生物が人間にもたらす価値(資源、雑草、害虫など)に基づいて、その権利を定義することができると考えているかもしれない。だが法律には、美しい声でさえずる鳥が生きる権利や、何千年も前からある川が流れる権利や、森で木々が生い茂る権利は定められてはいない。
 
 政治制度は人々を統治するよう設計されているが、自然に大きく依存していることを認識せず、人間のニーズばかりが重視された場合、政治家は党利党略や再選を最優先に考えて行動するようになる。環境保護の取り組み強化など顧みなくなり、そうした政治の愚かさがグロテスクな形で表れているのが現在の米国である。
 
 これまで世界で支配的だった経済システムは、終わりなき成長という病的ともいえる信念に基づいている。だが生命には限りがあり、永遠に成長し続けるということはあり得ない。完全に持続不可能だ。加えて、経済は人間の創造性と生産性に基づいているため、生物が暮らせる豊かな地球環境の維持という自然が提供するサービスは無視される。ダムの建設や焼畑、森林伐採、農業などによってそうしたサービスが失われることは、経済学的には負の外部性が生じているとみなされるが、これは人間の要求に起因する「巻き添え被害」に他ならない。
 
 私たちの行動は、私たちが世界をどう見るかによって決まる。では環境を中心に考え、自然との関係を再構築するには、どうしたらよいのだろうか。グロ・ハーレム・ブルントラント元ノルウェー首相は、1987年に国連で発表した報告書「我ら共有の未来(Our Common Future)」の中で、持続可能な生活を営んだ経験を持つのは数千年にわたってさまざまな環境の中で暮らしてきた先住民族だけだと述べた。先住民族は、先祖が苦労して得た学びを蓄積し、北極圏のツンドラ、アマゾンの熱帯雨林、コースト山脈、平原、砂漠など、さまざまな環境の中で生き抜いてきた。資源を求めて「優れた文化圏」からやって来た侵略者と戦い、多くの先住民族は今もなお戦い続けているが、それらはいずれも土地をめぐる戦い、すなわち、彼らの土地にあるものを欲しがる人間の脅威との戦いである。
 
 私は40年以上にわたって先住民族と共に仕事をするという幸運に恵まれたが、祝い事、記念日、ポトラッチ(先住民族の儀礼)など多くの行事に参加するうちに、民族によって歌や踊り、祈りは違っても、そこに表現されている思いは同じだということに気づいた。どの民族も、豊かで惜しみない自然を作り出した創造主に感謝を捧げるとともに、人間には自然の豊かさを保つ責任があると理解しているのだ。このような感謝と責任の互酬は、今や世界の大半から失われつつある。聞くところによれば、日本古来の信仰である神道もまた自然崇拝に基づいているという。私たちの社会慣行や要求も、そうした視点に基づくものであるべきだろう。
 
 私たちは「人間は意のままに自然を操れる」と思いがちだが、自然を操るには人間はあまりにも無知であるということを過去の経験から知っている。例えば、パウル・ミュラーが発見した殺虫剤DDTは、害虫が媒介するマラリヤなどの病気や農業害虫に対する素晴らしい解決策だとかつては考えられていた。ミュラーは1948年にノーベル賞を受賞している。だが昆虫は、地球上で最も生息数が多く、多様性に富んだ重要な生物グループである。昆虫がいなくなれば、陸上の生態系は崩壊するか大きく変化するだろう。実際、DDTが大量に使われ始めるとワシの数が減少した。そこで原因を調べると、生物濃縮と呼ばれる現象が起こっていたことが判明したのである。また1945年に日本に原子爆弾が投下された時、科学者たちは広範囲で電気回路に損傷を与えたガンマ線の電磁パルスや放射性降下物がどのような影響をもたらすのかを理解しておらず、「核の冬」が起きる可能性も知らなかった。あるいはクロロフルオロカーボン(フロン)がスプレー缶や冷媒に広く使用され始めた時、それが成層圏に達すると紫外線で分解され、塩素原子を放出し、オゾン層を破壊するということも分かっていなかった。
  
 気候変動と生物種の絶滅が進む中、コロナ後に向かうべき世界の姿とは?

 私たちがこれから力を注ぐべきなのは、互いに思いやりを持ち協力し合う社会を取り戻すこと、自給自足の割合を高めること、家族、友人、コミュニティーの豊かなネットワークを築くこと、そしてきれいな空気、水、土、食料、エネルギー、生物多様性など、健康で幸せな暮らしに必要なものをすべて与えてくれる自然を大切にすることだ。コロナ後の世界では、地球環境を回復・再自然化させ、経済優先の消費社会から豊かな関係性に基づく社会へと転換していく中にこそ、新たな機会がある。
 

コロナ危機特設ページトップ

外部リンク

  • JCI 気候変動イニシアティブ
  • 自然エネルギー協議会
  • 指定都市 自然エネルギー協議会
  • irelp
  • 全球能源互联网发展合作组织

当サイトではCookieを使用しています。当サイトを利用することにより、ご利用者はCookieの使用に同意することになります。

同意する